工具の熱処理・表面処理基礎講座

本講座では、主要工具材料である工具鋼の種類と、それらに適用されている熱処理(主に焼入れ焼戻し)および表面処理(主にPVD・CVD)について詳細に解説します。
第5章 PVD、CVDの種類と工具への適用

5-4 PVD適用上の留意事項

PVDによる皮膜の生成においては、基材を加熱する必要はないため低温成膜法として位置づけられています。しかし、皮膜原料である固体や液体を気体にしますから、蒸発源は電子ビームやアーク放電によって高温加熱されます。そのため、基材を直接加熱しなくても、蒸発源からの輻射熱など他の昇温因子が多いため、軟化温度や融点の低い材料に適用する場合には、処理中の温度上昇には十分な注意が必要です。

CVDでは、処理物をヒーターで所定の温度に加熱保持し、しかも固定した状態で処理しますから、処理物の温度は比較的正確に測定することができます。しかし、PVDによる成膜は高真空もしくは中真空中で行い、しかも処理物は自公転しているため、熱電対などによる直接測定はできませんから、正確な温度を把握することは困難です。

図1に示すように、PVDにおける処理物の加熱はヒーターで行い、熱電対などで所定の温度に制御しています。しかし、蒸発源からの輻射熱やイオンプレーティングなどプラズマを利用する場合には、イオン衝撃によっても基材の温度は上昇しますから、所定の温度以上になることも珍しくありません。一方、制御用温度センサは蒸発源からの輻射やプラズマの影響をほとんど受けない位置に設置されていますから、処理物の温度は制御用温度計の指示値よりも高くなります。成膜対象物が細物や薄物、エッジ箇所などは輻射熱やイオン衝撃による温度上昇が大きいので、とくに注意が必要です。例えば、切れ味確保のために高い硬さが要求される刃物などは、鋭角な刃先の温度が上昇しやすいため、成膜装置内の治具に取り付ける際は、刃先が蒸発源からの輻射熱を直接受けないように工夫しなければなりません。

図1

また、図2に示すように、加熱によって軟化しやすいピアノ線や焼戻し軟化抵抗の小さい炭素工具鋼、浸炭焼入品、高周波焼入品などは、加熱温度が200℃を超えると軟化してしまいますから、とくに注意を要します。一例として、図中にピアノ線の加熱温度と硬さの関係を示すように、200℃までは硬さの変化はほとんどありませんが、200℃を超えると急激に軟化することが分かります。

図2

気体やそのイオンの移動を利用しているPVDは、複雑形状物への均一処理は困難であり、形状によってはまったく膜生成が不可能な場合もあります。このつきまわり性の悪さは避けることのできない問題であり、現状では処理物のセッティング方法によって対処するほかありません。そのため、工業的規模の成膜装置においては、処理物固定箇所には標準仕様として自公転など回転機構が装備されています。

図3は、活性化反応蒸着法(ARE法)によって生成したTiC膜の成膜角度と膜厚の関係を示したものです。図中には切断法によって実測した膜厚を実線で、粒子が100%直進したと想定したときの計算値を破線で示しています。成膜面が蒸発源に対向しているとき(θ=90°)の膜厚が最も厚く、成膜角度が大きくなると薄くなることが分かります。成膜角度が120°位までの膜厚は計算値ともよく一致していますが、120°を超えると計算値よりも実測値のほうが大きな値になっています。この現象は、気体粒子の一部は飛行過程で他の粒子との衝突によって方向が変化するためと思われます。

図3

また、図4は、マグネトロンスパッタリングによってTiNコーティングしたときの膜厚分布を示したものです。この場合も、個々の処理物において、ターゲットに対向し、ターゲットからの距離が最も近い処理物BのII面が最も厚くなり、ターゲットからは陰になる面の膜厚は他の面に比べて極端に薄くなります。

図4

成膜者側としては、生産性を考慮して装置内にはできるだけ大量に取付けるべく工夫を凝らしますが、このようなPVDのつきまわり性の悪さを十分に配慮しなければなりません。

執筆: 仁平技術士事務所 所長 仁平宣弘

『工具の熱処理・表面処理基礎講座』の目次

第1章 工具に用いられる材料

第2章 炭素工具鋼、合金工具鋼の焼入れ・焼戻し

第3章 高速度工具鋼の焼入れ・焼戻し

第4章 工具を対象とした表面処理の種類と適用

第5章 PVD、CVDの種類と工具への適用

第6章 工具を対象としたPVD、CVDによる硬質膜の種類と適用

第7章 工具の損傷事例と対策

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